『教育社会史史料研究』21号に、『笑いで歴史学を変える方法』の書評を掲載していただきました。
室長は評者の向野正弘さまより直接掲載誌をご恵贈いただき、初めて書評掲載を知りました。
掲載誌は所蔵館が1館しかないようなので手に入りにくいのですが、幸い評者の向野さまがPDFファイルを公開してくださっていますので、どなたでもご覧いただけます。⇒https://researchmap.jp/kouno-masahiro/misc/49147561
書評はたいへん厳しく、「アマチュア」を自認される方(室長は評者のことをアカデミアの方だと考えているのですが)にはこのように読まれてしまうのかという点は重く受け止めねばならないと感じたところでした。
しかしながら、いくつか事実誤認に基づくと思われるところもあり、その後評者とのやり取りをさせていただく中で、誤認であったことが確認されたこともあり、ここに改めて著者の立場からいくつか補足をしておかねばならないものと考えました。
(1)「歴史学会」に対するイメージの相違
著者は、9頁の学会報告の手順に関する記述について、「今更聞かれても、他領域の学術大会を知っている方からは、呆れられるのではないか。歴史学の学会の研究発表のスタイルが古いのだ」という記述をもとに評者と何度かやり取りをさせていただきました。
まずは、「他領域の学術大会」といっても評者が一体どこを念頭に置いているのだろうと疑問に思ったため、尋ねてみたところ、広島の教育学(いわゆる教教)で、社会科教育学や比較文化系の学会や地理学系の学会が念頭に置かれているのだとのことでした。
これに対し、著者は大学に勤めている関係から、歴史学のみならず、社会学、言語学、文学、哲学、心理学、法学政治学といった人文社会科学、さらに医学、生物学、工学、物理学といった理系学問を専門とする同僚もおり、その話を直接・間接に聞く中で、歴史学会のやり方は決して特段に「古い」というわけでも「権威主義的」「閉鎖的」というわけでもないことを知っていました。どちらかというとむしろ歴史学の学会は、設立こそ「古い」(歴史がある)とはいえ、その在り方は当時にしてはかなり先進的であったように思われます。
他分野の学会には、入会の際の費用だけではなく、投稿にも高い投稿料をとるところがありますし、入会の際に大学に所属する教員の紹介状が必要なところもあります。入会費だって、歴史学の学会よりはるかに高いのが相場だと思います。この点、歴史学の学会はかなり良心的な方だという認識を持っております。入会費もおそらく高い方でも年1万円弱、紹介状不要、投稿料無料!どうです、皆さん!怪しい商売みたいでしょう!(なにもあやしくないです)
このことをお伝えしたところ、リアクションはなかったので、おそらくご納得いただけたのかなと思っておりました。しかしその後も何度か、歴史学の学会が「閉鎖的」「徒弟制度的」「サロン」というようなことを折々に仰られるので、評者のこれまでに書かれたものなどを拝読して何らかの手がかりを得ようとしたところ、もしかすると評者の方が大学・大学院で歴史学を専門としておられたころに嫌な経験をなさって、それがきっかけとなってその後歴史学の学会を離れてしまわれて、その後もずっとそのイメージがあるから歴史学の学会には疎遠になられるうちに、いつしか学会の担い手も世代交代し、また世の中も変化し、その当時のような学会ではなくなっているにもかかわらずご存じなかっただけではないか、と感じられたので、その旨を丁寧にお伝えしたのですが、それでもなかなか納得してくださいませんでした。
あれこれお話する中で、歴史学会は各大学を基盤として成り立っているものがほとんどだから閉鎖的な「サロン」じゃないか、という認識を抱いておられたことを知りました。「そうだったのか!」と、著者としてはひじょうに腹落ちしました。
そういうイメージを持っておられる方!ここ、すごく大事なことなのでよく聞いてください!
歴史学の学会はひじょうに多く、その中には当然大学を基盤とした学会もありますが、歴史学の分野で実際に論文を掲載されて、それが就職や昇進の際に優れた業績として評価される学会のほとんどは、「民間の学会」です。「民間の学会」というのは、高校教員や学芸員、自治体職員やアマチュアの歴史家が起ち上げた同人誌を母体とするものです。
もちろん、史学会(史学研究会は最近ちょっと弱ってきているので並べるのが恥ずかしいです…外国史や考古・地理はまだそうでもないようです。史林、がんばって!)のように、大学を母体とした超絶すごいつよつよ学会もありますが、史学会の学術誌『史学雑誌』は全国津々浦々、多種多様な大学の研究者の論文を掲載してくださっています。また、『回顧と展望』というたいへん公益に資する特集号を毎年刊行してくださり、その執筆陣は特定の大学に限らない、全国の多くの大学の様々な研究者(中には学芸員や高校の教員もいます)が加わっています。たいへんありがたいことです。学会発表も、なるべく多くの若手にチャンスを与えるような方法でなされています。
歴史学会は、思っておられるよりも風通しのよい、開放的な学会です、とお伝えしたところ、ご理解いただけたようで安心しました。
しかし、翻って、このような感想は実はこの評者の方以外からもいただいていたところでしたので、おそらく「歴史学の学会は閉鎖的」というイメージはかなり広く抱かれてしまっているのではないかと思われました。いお倉に接触いただいた方に限られた話ではありますが、こういうイメージを持たれている方は50~60代の歴史学以外の領域で歴史学的研究をされた方であるという共通点がありました。
そうしてみると、これは30~40年くらい前の歴史学会の皆様がおやりになってきたことのツケを、いまいお倉ひとりが集中して払わされているということになるわけです。なんということだ…!反省していただきたい…!こんな…こんな理不尽なことがあっていいのか…!(哀れに思われた斯界の大先輩の皆様にいお倉への救いの手を差し伸べてほしいと哀願しようにもどうにも、ネェ…(意味がわかると怖い話))
(2)オタク特有の大袈裟表現
13頁註17の「苛烈な差別と迫害」に関するご指摘ですが、これはオタク特有の大袈裟表現だったのです。
よくご存じない方に解説しますと、オタクは情動が激しいので「白髪三千丈」的な大袈裟表現を好んで使います(参考:https://togetter.com/li/2148717、https://soredoko.jp/entry/2024/04/30/120000。例文:「5億年ぶりに〇〇したわ」「全俺が泣く」「〇〇しか勝たん」など)。
ここではそういうオタク構文を使ったのです。
ここで、次のような反論が想定されます。「いや、あんたがオタクなのはわかったが、オタクじゃない人も見る新書という媒体で、30代オタクにのみ刺さる表現を用いることは不適切だ。ネットだけでやってろ」
それも尤もなご指摘なのですが、ここで著者がこの本でオタク構文を多用したことには意味がありました。著者は、この本が終始「真面目なことを不真面目なトーンで伝える」本であって、読者には終始ツッコミながら読んでいただくことを要求する本である(いわゆる「ツッコミ待ち」)、そしてそれゆえに「本気で言っている部分と本気にしてはいけない部分」を分けて理解しなければならない、ということを読者に認識していただくための手がかりを随所に盛り込みました。これもその手がかりの一つでした。そのルールはだいたい第一部でチュートリアルが完了し、第二部以降が実践編になっています。
そして、何より重要なことは、著者は、オタクの文化にこそ対立や分断を乗り越える救いを見ていたということです。
2ちゃんねるやTwitterは、今やヘイトの温床であったなどと言われていますが、私はまだ初期の頃は救いもあったと思っています。たとえば何かヘイト的な投稿があった場合、その投稿に連なるリプライの中に、いくつかは必ず冗談で切り返すアカウントがいて、そうしたアカウントから派生していつの間にか大喜利のようになって、ネトウヨと左翼が仲良くなってしまっている光景が何度か見られました。
あるいは、京大熊野寮の話で恐縮なんですが(なんで)、コロナ禍の2022年に開催された熊野祭では、反ワクチンの陰謀論者と医学部医学科の学生が論戦するというイベントを開催していたのですが、これこそまさにいお倉の「笑い」に通じる感覚です(これ)。ちなみにここでアルミホイル巻いてた人はその後卒業式でゼレンスキーになってます(なにょいいよるんじゃ…)
こうした一触即発の、扱いようによっては大けがをするようなテーマを笑いに変えて「仲良くなってしまう」というセンスが大好きで、こうしたところにもまた私は救いを見ていたのかもしれないと思います。同時に、こうした「笑い」を生み出すのは教養の力でもあると強く感じました。この力を、歴史学にももたらしたいし、それはできると確信していました。
だけど、そういうのはやっぱり歴史学では歓迎されないのかな、ということをこの書評を見ていて感じました。少しさびしいですが、でも仕方のないことかもしれません。まだまだ挑戦のしがいがあって、わくわくします(強がり!)。
(3)ポリティカル・コレクトネス
10頁で「専業主婦を自律した人格と見做さず、使えるものは使おうということを臆面も無く言えてしまう感性は、見直したほうがよいと思う」、13頁註13で「今日ポリティカル・コレクトネスを無視して論文を書いても受け入れられないのではないか」と書かれた辺り、これは拙著133頁の専業主婦に対する記述を問題としておられるところです。
まず、断っておきたいのは、著者は「専業主婦を自律した人格と見做さず、使えるものは使おうということを臆面も無く言」ったわけではありません。ポリティカル・コレクトネスについても、現在逆風が吹いているとはいえ、その必要性は認めています。著者自身、女性、貧乏人、病気持ちという三重苦を背負っていますので、どれか一つでも国家から見捨てられたらたちまち奈落の底に突き落とされる恐怖を感じながら生きてきました。それゆえにこそ国家ありがとう!国家万歳!日本大好き!な軍国少女になってしまったくらいです(またこの子はこういうことを…)。
で、著者がここで何を言いたいのかなんですが、普通に字面をそのまま読めば「専業主婦を自律した人格と見做さず、使えるものは使おうということを臆面も無く言えてしまう感性」を持った、21世紀にもなって「ポリティカル・コレクトネス」の「ポ」の字も知らない反動主義者のように見えますね。怖いですね。
そう、狙いはそこなんです。
著者は、「専業主婦を自律した人格と見做さず、使えるものは使おうということを臆面も無く言えてしまう感性」を持った、21世紀にもなって「ポリティカル・コレクトネス」の「ポ」の字も知らない反動主義者どころか、「専業主婦は一個の独立した人格である」「使えるものは使おうと臆面もなく言うことは望ましくない」「ポリコレは大事だ」という規範がもう十分社会の中に浸透していると認識していて、何も疑いを持っていません。
著者がここで、「専業主婦などであって、企業に伝手がない方などは、夫の付き添いでそのような場(向野:有力者の集う場)に参加すればよい。「○○夫人」という肩書きは非情〔ママ〕に有効である」と書いたのは、皮肉です。それまでの本書を通底する「真面目なことをふざけたトーンで語る」「ツッコミ待ち」という基調、そしてそれゆえに「本気で言っている部分と本気にしてはいけない部分」を分けて理解しなければならないというルールを適用すれば、この部分は「本気にしてはいけない部分」です。
著者は、繰り返しますが、「専業主婦は一個の独立した人格である」「使えるものは使おうと臆面もなく言うことは望ましくない」「ポリコレは大事だ」という規範がもう十分社会の中に浸透していると認識していて、何も疑いを持っていません。したがって、この部分は「当たり前すぎる規範に逸脱したことを言っている部分」ということになります。そう考えると、次になぜそのような逸脱をしたのか、ということになり、答えとしては次の二つが想定されます。
(1)著者が真正の腐れ外道である
(2)著者が「ここは本気にしてはいけない部分である」との標識を付けた
著者としては(2)のつもりだったのですが、これは「著者は「専業主婦は一個の独立した人格である」「使えるものは使おうと臆面もなく言うことは望ましくない」「ポリコレは大事だ」という規範を共有しているだろう」という共通認識がないと導けないことでした。著者としては「この世にポリティカル・コレクトネスの大事さを認識していない人などいるはずがない、とみんな思っているはずだから、まさか(1)の意味で本気で捉える人などいないだろう」と思っていたのですが、やや不親切でした。
では次に、なぜ著者はここで「本気にしてはいけない部分」を置かねばならなかったのか。
それは、本当に言いたかったことを直接的に言わない工夫です。
著者には、いろいろ思うところがありました。アカデミアに対する不満や、アマチュアの方が大学の外で大学や学会を批判されることへの恐怖、その根本を作ったアカデミアに対してまた不満…
そうしたもののうち、アカデミアに対する批判に関する部分だけは、ちゃんと真正面から伝えようと思いました。なぜかというと、著者にはアカデミアに対する信頼があったから。アカデミアはこれを言ったところでわたしを干すような、そんな狭量なところじゃない、という信頼があったから。そして究極的には、ここで言ったようなことをアカデミアの側もまた問題だと認識してくれているはずだという信頼があったから。
しかし、アマチュアの方々に対して思っていることは、こんなに直接的には言えません。
(ちなみに、評者は「アマチュア」と言わず「ザイヤ人」という造語を対置しておられますが、「ザイヤ」は「在野」からきていることは明白であり、「在野」の「野」とは「官」の対義語で、アカデミアが「官」ということになりこれは全くの事実誤認であり、私には「アマチュア」よりも不適切な言葉だと思われます。却って評者の無意識の権威主義的アカデミア認識が見え隠れしています。しかし評者に限らず、アカデミア外で研究される方の多くは「アマチュア」と言われることをすごく嫌がられます。著者は「アマチュア」に全く悪い印象を持っていなかったので不思議でしょうがなかったのですが、どうもこれまでにアカデミアの誰かから「アマチュア」という言葉に差別的なニュアンスを込めて指さされたことがあるのかもしれません。あるいは、やっぱりご本人の中で「アカデミア」の方が「上」という無意識の秩序観念があって、それゆえに「アマチュア」と言われると「下」と言われているような気持ちになるのかもしれません。私はそもそもアカデミアが「上」とも思っていないのでなんでそんなふうに思われるのか不思議でしょうがないのですが、こういうのもやっぱり著者が「上」にいる者だと思っておられる方からするとむかつくのかもしれないなあと。しかしまさか自分たちを「上」なんて思うこともできないし、さてどうしたもんかなあと思うわけです。しかし、こういうことを言うと必ず食らってしまう反発ってもしかして、著者が「俺、実家は大学の近くなんだけど、親に頼らず生きていきたかったから安い家賃の部屋に下宿してたよ!」とかのたまうお金持ちの子女に対して感じていた「ハァ?なんだテメテメテメテメコノ」と同じ感覚?と気づいた瞬間があって、なんか微妙な気持ちになったわけです。だって私は「お金持ちの子女」みたいに資産があるわけでもないし、完全にこのか細い腕っぷしだけでやってきたわけで、私が倒れたらだれも助けてくれなくなるわけで、その意味で全然恵まれてないわけで、やはり謂れのない批判だと思うんです。でもそういうわけで、もう「アマチュア」も使えないので非「アカデミア」とか「アカデミア」外部の方々、という言葉を最近は使ってます。なんか「吏党」「温和派」「非民党」問題みたいだなコレ…)
第一に、「アマチュア」もとい、「アカデミア」外部の方々と一口に言っても本当に様々な方がいて、一様の伝え方はできないからです。第二に、「アカデミア」外部の方に対してアカデミア内部にいる者から要望したいことがあっても、それがこれまでに築かれてきた官民イメージや「高圧的な」アカデミア像、そして一部の方々が実際に体験してこられたトラウマから、「要望」ではなく「攻撃」と捉えられてしまうおそれがあったからです。
著者はアカデミアが別に強くもなんともなくなった、むしろなんかちいさくてかわいそうになってしまった時代に大学に入ったため、アカデミア外部の方々が抱いておられるアカデミアイメージを全く共有しないままアカポスに就いてしまいました。その中で、アカデミア外部の方々がブログやnoteで、あるいは大学研究室や学会事務所に送られてくるお手紙などの中で、大学や学会に対して大学教員に対して、学問的な場ではあまり見かけないような強い言葉を投げかけておられるのを見て、「私たちはこんな風に思われているのか」ととても怖い気持ちになったものです。
学問的な場では、人格攻撃のようなことはまずしません。相手を潰してやろうとか、人生を台無しにしてやろうとか、そういう言葉をかけることはご法度です。たまにそういう方がいることも事実ですし、(1)で見てきたように、そういう方々の被害に遭われた方々もいることは存じ上げております。しかし、今では概ね大学研究者はそのような物言いをしてはいけないという規範が浸透してきていると認識しております。
一方で、アカデミア外の方々にはまだこのような規範は共有されていません。したがって、「アカデミアのやつなら人格攻撃をしてもよい」「アカデミアのやつならどんなに強い言葉で叩いてもよい」「なぜならあいつらの先祖は俺たちの先祖に対して酷いことをしてきたから」というように考えられているのではないかと思われたのです。
著者は、アカデミア内部であっても外部であっても、学問的な議論をするのであれば、学問を進展させていくのが共通の目的なのだから、その目的が台無しになるような人間関係の築き方は望ましくないと考えています。それが、本書でアカデミア外の方々に伝えたかった一つのメッセージです。
もう一つは、ここでも書いたのですが、承認欲求が知的好奇心より上回る形で研究をするのは誰も得しない、ということです。
じゃあこうしたことを、直接的に言えばよいじゃないかと思うじゃないですか。しかし、直接的に言うと、「アカデミアからアカデミア外の人びとに文句を言うなんて絶対に許されない」と言われてしまうのではないか、と著者はおそれたのです。
そしてもう一つは、この本が「真面目なことをふまじめなトーンで書いている本」だということです。このトーンで一貫させるためには、真面目ばっかりではいけないんです。
そのうえで、先述の133頁の記述で意図したのは何であったかに立ち戻りますと、ここで著者が言いたかったことは、「学問に地道に取り組まずに外交を通じて手っ取り早く手柄を得ようとしても、結局地道に学問やった人のような成果は手に入りません。しかし、それをやろうという人たちがたくさんいるのも知っています。だからもう私は何も言いません。勝手にすればいいさ!」です。
ここでは直接的に言いにくいことを伝えるために、あえて露悪的な調子で読者に違和感を残すことによって、「ここは本気にしてはいけない部分ですよ」と標識を打って、そしてその前後の文脈からそれとなく伝える、というやり方をとりました。回りくどいですね。それが結果的にこんな批判を受けているんだからお笑い種です。アカデミア外部の方々を怒らせ、本来築きたかった良好な関係は築けず、却って一番望んでいなかった「学問的な議論をするのであれば、学問を進展させていくのが共通の目的なのだから、その目的が台無しになるような人間関係の築き方は望ましくない」を地で行くような関係になってしまったことは、著者の失敗であり、重く受け止めています。
でもこれも結局、著者がそれまでに経験したアカデミア外の方々との遭遇があまりに衝撃的だったことが著者の目を曇らせてしまった結果かもしれないとも思われます。そうだとすればこれは(1)の問題と同根で、我々はただ、30~40年前のアカデミアとアカデミア外部の方々の間でもつれにもつれ、彼らが何も手を施さず放置してきた問題のツケを払わされているだけなのでしょう。
もうずっとこの問題を考えています。
その意味で、評者がこうして文章に残してくれて、そしてそれを著者である室長に直接伝えてくれたことは、本当にありがたい機会であったと感謝しています。
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【2月22日追記】あの後いろいろと書き洩らしていたことに気づいたので追記をしておきます。
(3)について、第二部のところどころで見られる、こういう旧態依然で露悪的な物言いが「冗談」であると捉えられるためには、現在の規範がそれとは真逆であるという認識と、それにも関わらずそういう旧態依然なイメージが実は社会の中にまだまだ残存しているという事実という、この二つの条件が理解されていないといけないんじゃないかと思うんです。しかし、こういう「冗談」はいよいよ通用しなくなってきたかもしれないなと痛感します。
それを最初に感じたのは、2021年のM-1グランプリでした。ここに書いたように、著者はこの年のM-1は観ていなかったのですが、その後のネットニュースなどを通じていろいろと話題になっていることは知っていました。その年のM-1ファイナリストに「もも」という芸人さんがいたのですが、ももがルッキズムを全肯定するものだとしてネット上で炎上したという出来事がありました。
著者はももの芸風を知っていたので、この炎上には強い違和感を抱いたのですが、ももがわからない方のためにサクッとももについて説明します。ももとは、金髪にヒゲのいかついお兄さん「まもる。」とメガネに黒髪おかっぱの地味な感じの「せめる。」で構成されるコンビです。この2人の名前が既に彼らの芸風を表しているのですが、まもる。とせめる。が会話の中で、それぞれがその見た目のイメージに反したことを交互に言い、それに対して「いやお前〇〇顔やろ!」と相手がツッコむという芸風です。
で、この「〇〇顔」というところが偏見丸出しで、そこが「見た目イジリだ」と大きく批判されたのです。
著者はむしろ、ももの漫才っていうのは、そういう世の中に存在する偏見自体を笑うものではなかったのか?と思っているんです。でもそういう「冗談」は通用しない人もいるということなのかもしれません。
…でもそうだとすれば、私たちは偏見をどうやって笑えばいいんだ?
私が第二部でやったことは、現在の規範を当然のこととして受け止めた上で、それに反するような認識を敢えてとって見せることで「そうはいっても、ホラこういうこと考えてる人いるんでしょ?」とその無意識の偏見を斬り、同時にそのような言動で違和感を残して標識化し、本当に言いたいことをそれとなく伝える、ということでした。
著者は偏見も、それを実は自分も持っているにもかかわらず自覚も反省もせず正しい側に立って相手に過剰な攻撃を加える側も、その双方に加勢する側も、みんなに疲れてます。「著者はアマチュアが嫌いなんだと思う」じゃないんですよ。しいていうならみんな嫌いなんです。いや、みんな嫌いで、みんな面白いの。(これも批判受けそうだけど、ちょっと複雑な意味があるからみんなあまり文字通りに受け取らないで…)
※まもる。はいいぞ。まもる。が視覚障碍者の漫談芸人・濱田祐太郎と大阪マラソンで伴走している動画とか、はまゆうとワチャワチャする動画とか観てると、彼がどれだけインクルーシブな芸人かわかるぞ。はまゆうを差別するでもなく逆に腫物に触るように扱うでもなく、普通に「はまゆう」として接しているんだ。他の動画でもみんな普通にはまゆうをサポートしながら歩いてるし、はまゆうとご飯食べるときはどんなものがどこに置いてあるか自然に言語化して伝えているし、これを見てると、大阪の劇場は雰囲気が変わったなと感じたよ。
(4)大事なこと忘れてた
いお倉を休止することについて書いたブログの記事を引用された11頁「「面白くない」というのは理由にならない。退くなら退くで、きちんとした総括が必要である。それがなければ、次へと続かない」
「「面白くない」というのは理由にならない」とのお言葉ですが、室長にとってはそれは一番重要な理由なのです。なぜならこの試みが、「笑い」を追究するものだからです。「笑えなくなってきた」ということはこの試みを中断するこれ以上ない理由です。室長は、自分が笑えなくなってきたものを続けることはできないからです。逆に評者の言うようにやっていたら、この挑戦は終わります。
【2月22日追記②】
「退くなら退くで、きちんとした総括が必要である。」といって離してくれない人がいるのもわかりますが、ちょっと本当に室長はノイローゼみたいになってきたので、こうして考えることもちょっとお休みさせてください。休止中でも「総括」や言葉足らずであったところの補足やお手紙戴いた方へのお返事だけはしようと思っていたのですが、ちょっと頭が灰色みたいになってきたので。ごめんなさい…
学術的な批判はいくらでも耐えられたのに、意図していないことを言ったように言われて、自分でも一番嫌いなタイプの人のように誰かに思われてしまっていることがこんなに辛いんだって初めて知りました。自分で蒔いた種だから自分で何とかしますが、今はちょっと心を休ませていただくことをお許しください。
でも『笑い』という本がアカデミア外の方々が思ってるような内容では全くないということだけは最後に繰り返しお伝えさせてください。
「アマチュア」として書いてある部分は、アカデミア外の方々に著者がお願いしたいことです。お願いしたいことはたくさんありますが、私たちは皆さんに直接的にお願いすることもできない立場なのだということ、少しだけでも想像してくださればありがたいです。
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