(1)アマチュア歴史家のあなたへ
(令和6年1月12日更新)
これまで、弊室では投稿資格をフリーにして広く投稿を呼び掛けてまいりました。昨年12月2日の『朝日新聞』をご覧になってここにきていただいた方も、「誰でも投稿できるんだ!」というところを「新しい」とお感じになられてここに来られたことと存じます。
しかし、このHPやX、タイッツーなどで何度も繰り返し言葉をかえて説明してまいりましたが、この雑誌は「誰でも投稿できる」ところが新しいのではなく、水準を保ちながら「笑い」を追究するというコンセプトが全くこれまでになかったところなのであり、単なる「楽しく歴史ファンが交流できる同人誌」という位置づけではなく、本格的な「学術誌」を目指しております。
このことが、今一つアマチュア歴史家の方々に伝わっていなかったようで、これまでにいただいた多くの投稿に対して、弊室ではお一人お一人に誠意を込めて説明し、不採用の旨をお伝えしなければなりませんでした。
大学に在籍する研究者の方や学会委員の方には、「不採用は通知だけでよいのでは?」と思われる方も多いでしょう。現に、これまで多くの学術誌でそのような対応がとられてきました。
しかし、「不採用」には査読コメントなしで返却、という対応でご納得いただけるのは、アカデミア史学のカルチャーを共有する方だけなのです。全く外部の、歴史学や歴史を扱う他学問を研究した経験のない歴史ファンの方には、この対応は不誠実に映る可能性が高いです。我々にとって、学問のカルチャーを共有していない方のお考えや行動原理は全く予測不可能で、返答によっては思わぬ悲劇的な結果を招くこともないとは言えません。もちろん、多くの方は善良でお優しい方と存じます。されども、我々には皆様のお人柄がわからないのです。情報があまりに非対称なのです。学会や大学など大きな組織がバックにある場合は強気に出られるのかもしれませんが、実質室長の個人商店の様相を呈している弊室では、あらゆる事態を想定して守りに入らざるをえません。したがって、却ってより懇切丁寧な説明が必要と感じられたのです。
しかし、「不採用」という投稿者にとって不愉快な結果をお伝えすることはとても辛いものです。どれだけ言葉を尽しても、「ちゃんと伝わっただろうか」「どこかでコミュニケーションの齟齬が起こっていないだろうか」「あの表現では怒られないだろうか」などと考えてしまい、室長は毎日毎晩不安と恐怖で眠れなくなり、日中のパフォーマンスも落ち、心身に不調を来すようになってまいりました。
もうこれ以上の負担は本務どころか日常生活にも支障が出ると考え、このたび、まことに断腸の思いではございますが、投稿規定を改定し、「大学・研究機関・博物館・史料館等で歴史学の研究をしている方、またはかつて大学・大学院で歴史学を専攻されていた方、および大学・研究機関等で政治学・経済学・社会学などの隣接諸分野において歴史的事象についての研究をしている方、またはかつてしていた方」以外の投稿を当面の間見合わせることといたしました。
『朝日』を見てこの雑誌に希望を抱いて来てくださった皆様もいらっしゃる中、たいへん情けなく、不甲斐ない気持ちでいっぱいです。
しかしながら、アマチュア歴史家の方のご要望がこれほど多いのだということは新鮮な発見でもあり、また現状の学術コミュニケーションをめぐる問題を確認できましたので、この発見は今後別の形で活かしてまいる所存でございます。どうかご理解賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。
(2)研究者のあなたへ
研究者の皆様は、それぞれにご専門の領域で一次史料を探索され、「面白い」ネタはたくさんお持ちです。それを、弊誌に投稿されるのですが、弊誌の求める「笑い」とズレていることが少なくありません。
研究者の皆様の多くが観念する「笑い」とは、知的好奇心をそそる逸話や逆説的ユーモアなどの、内容の「面白さ」であることが多いのですが、研究というものは、そもそも研究者自身がそこに知的好奇心をもって取り組むものですから、極論すればあまねく全ての研究は「面白い」ことになります。
我々の言う「面白い」「笑える」は、そういう、研究の内容的な「面白さ」ではないのです。
我々の「面白さ」は、たとえていえば、オタクや虫捕り少年を端から見たときの「面白さ」「笑い」です。そこには「狂気」があります。純粋にその物事を知りたいという欲求のみに突き動かされて、一見無意味に思えるようなことに執念深く取り組んでいる、その姿勢の狂気的な「面白さ」です。ですから、我々は創刊の趣旨で、「歴史の面白さ」ではなく、「歴史学の面白さ」と敢えて表現しました。
我々が目指すのは、研究生活を続ける中で人びとが次第に失ってしまう少年のような心を、この雑誌を通じて取り戻すことです。そして、それを通じて、既存の歴史学界の持つ問題を考えるきっかけにもなるのでは、と期待しています。
我々が属する人文諸科学は、今や世間的に全く「無用」の学問と見なされて、非常に肩身の狭い思いをしております。一方、歴史学内部では、年々その実証精度は高まるのみならず、そこに理論化や隣接諸科学の援用などの付加価値を置かなければ第一線の舞台で闘うこともできなくなり、査読基準はきわめて厳しく、心身を病んで辞めていく院生や若手研究者も少なくありません。しかし、我々がこれほど査読を厳しくして、国家体制だとか権力だとか権威だとか秩序だとかの知見を深めようとも、世間はそれを決して「有用」とは見てくれなくなっています。それならば、我々は何のためにこれだけ査読を厳しくするのか?我々の苦労は全くの徒労なのではないか?そういう虚しさが、常々我々の胸に去来します。
いお倉は、こうした現状に対し、「どうせ無駄だって思われてるんだったら、大真面目に権力とか秩序とかを考えて疲弊するよりも、もっとくだらないことをネチネチネチネチ研究して、皆を笑わせたっていいんじゃないか?いや、むしろそっちの方がずっと社会的に意義があるんじゃないか?」と考えます。
これは、いわばやけくそです。滅びを前提とした、そのつかのまの慰めです。しかし、このような試みによって、一般の人たちの中から「歴史学」という営みについて考えてくれる人が一人でも二人でも出てくれるのではないか、と我々は期待するのです。
我々の「笑い」とそれに対する思いはこのHPの隅々に、様々な形で込めました。それは、イースターエッグのように、いろいろなところに隠されています。ぜひ、探してみてください。そして、我々の求める「笑い」をご理解いただき、皆様がイオクラリストになってくださることを、心より祈念しております。